Eno.243 ヘリオトロープの旅人  過去に聞いた噂の話 - ひかりの森

リローヴィリャ
「ちょっとしたゲームみたいな感じだよ。大丈夫大丈夫、外しても罰ゲームとかはないからさ~。気軽に考えて、気軽に答えてみて?」


 さあ、おれは何を書いたと思う?
 そんな言葉を付け加えながら手を伸ばし、小柄で可憐な相棒の髪を指先ですくった。

 桜花や桃花を連想させる薄紅色。
 穏やかな陽を告げる春の色をまとった彼女の表情は、リローヴィリャの言葉一つでくるくると入れ替わる。
 こちらの言葉で困らせたり、戸惑わせたりしてしまっていることも自覚しているが――真剣に考えて予想を聞かせてくれる姿は見ていて本当に癒やされるものがある。

 ふとしたときに、こういったささやかなゲームを提案するのは――まあ、リローヴィリャなりの理由がある。
 自分が彼女の反応や表情の変化を見たいからというのもあるのだが、冒険者をしていると過酷な経験をすることも多い。
 絶望感や無力感を覚える景色。経験。自分自身の力不足を恨みたくなる瞬間。
 自分たちが歩む世界には、そういった世界の闇といえるものが存在していて、それを直視しなくてはならないこともあるから――せめてそれ以外の時間では、ほんの少しでも日常や楽しみを感じてほしいから。

 一生懸命、真剣に考えてくれている彼女の様子を眺めながら、リローヴィリャはわずかに目を細める。
 思い出すのは己がまだ一人だけで活動していた頃の記憶。
 とある街に滞在していたとき、酒場で耳にした噂話だ。




 その日は普段と異なり、街全体がどこか張り詰めたような空気に満ちていた。
 引き受けていた魔物の討伐依頼を受けて戻ってきたあと、いつもなら穏やかな街の空気に気が緩むのにそうならない。
 討伐依頼に出ている間に何かあったのか――怪訝に思いながら情報収集のために利用している酒場の扉をくぐる。
 多くの冒険者で賑わっているのはいつもどおり。
 だが、テーブルを囲む冒険者のほとんどが険しい顔や難しい顔をしており、働いている店員たちも同じ。
 賑やかであるはずなのに、どこか暗く、重い空気に満ちている。

リローヴィリャ
「(――これは、間違いなく何かが起きたな)」


 疑問が確信に変わり、リローヴィリャも自然と険しい顔になる。
 だが、即座にそれをいつもの笑顔の裏に隠し、普段よく利用している席へ向かって歩を進めればこちらに気づいた顔見知りの冒険者がぱっとリローヴィリャへ視線を向けた。

「よっ、香煙! 依頼帰りか?」

リローヴィリャ
「やあ、炎術。一つ引き受けてた依頼があって、それを終わらせてきたんだ」


「それはお疲れさん。一杯どうだ?せっかくだし奢るぜ」

リローヴィリャ
「そうだなぁ……せっかくだし一杯もらおうかな。この後もまだ一つ依頼をこなしたいから、アルコールは入ってない奴で」


 声をかけてきた冒険者――炎術という二つ名で呼ばれている彼にそう返事をし、彼と同じテーブルにつく。
 店員が持ってきてくれたお冷を飲みながら互いに注文を済ませたあと、リローヴィリャは本題を切り出した。

リローヴィリャ
「ところで……炎術。今日はずいぶんと緊張感に満ちているけど、おれが依頼に出てる間に何か起きたの?」


 瞬間。炎術の表情が険しいものへ切り替わった。
 ことりと手にしていたお冷のグラスを置き、炎術は口を開く。

「ああ……そうか。香煙は依頼で街を離れてたから、まだあの噂を聞いてないのか」

リローヴィリャ
「あの噂?」


「魔獣の脅威から守られていたはずの島で、大規模なスタンピードが起きたらしい」

 ぴく、と。リローヴィリャの指先がかすかに動き、自然と目が細められた。


 スタンピード。
 この世界で生まれ育った者なら、嫌というほど耳にしてきた言葉だ。
 魔獣たちが大量に発生し、人々が暮らす領域まで押し寄せてくる――暴走した魔獣たちによる侵攻と蹂躙。
 古い時代からたびたび発生して多数の被害と犠牲を生み出し続けている、最初に発生した瞬間から現代に至るまで有効な対処法が見つからずにいる現象。
 一度発生したなら押し寄せてくる魔獣を討伐するしか道がなく、それができなかった場合は滅ぶしかない――この世界が抱えた災禍であり、病。


 それがまた発生した。
 今度は、魔獣の脅威から守られていたはずの場所で。

「噂だからはっきりしたことはわからないが、完璧な魔獣避けがされていたのに駄目だったらしい。今では封鎖されているらしい」

リローヴィリャ
「……封鎖か。なら、今後は誰も立ち入れないか……立ち入りが許可されたとしても、紫晶級の冒険者か開拓者しか入れないだろうね」


 言いながら、リローヴィリャは口元に軽く手を当てた。
 自然と瞼が半分ほど落ちて、炎術の冒険者に向けられていた視線が落ちる。

リローヴィリャ
「(……妙だな……)」


 今まで魔獣の脅威から守られていたということは、魔獣避けの効果は確かなものだったはず。
 魔獣避けがどのようなものだったかリローヴィリャにはわからない――が、島を守るためのものだ。
 効果が途切れないよう定期的に人の手が入るか、永続的な効果を持つものだっただろう。
 ……ということは。

リローヴィリャ
「(……その魔獣避けを跳ね除ける、新種の魔獣が現れた?)」


 可能性は――ゼロではないかもしれない。
 人間をはじめとした生き物が進化を続けてきたように、魔獣も環境に合わせてさまざまな進化をし、新たな姿や特性を得てきた。
 だが、もしそうだとしたら魔獣の進化する速度が早すぎるのではないか――?

「……大丈夫か? 香煙」

 ぱ、と。
 炎術の冒険者の声が、思考の海に沈んでいたリローヴィリャの意識を引き戻した。
 気づかぬうちに下がっていた視線を持ち上げて彼のほうを見れば、どこか心配そうな目と視線が合った。

「スタンピードには嫌な思い出があるだろ、お前。思い出させちまったか?」

リローヴィリャ
「ううん、大丈夫だよ。話を聞きたがったのは、おれのほうなんだから。気にしないで」


 いつもの笑顔を浮かべ、片手をひらひらと動かす。
 スタンピードに嫌な思い出があるのは事実だ。自分が片方の視界を失うことになった出来事も、自分自身が純粋な人間ではないのだと改めて自覚することになった出来事も――過去にとある場所で発生したスタンピードなのだから。
 だが、あれはまだ未熟だったリローヴィリャが自分の力を過信して判断を誤ったからだ。
 同じ失敗を繰り返さないようにするためにも、ずっとあの記憶から目をそらしているわけにはいかない。

リローヴィリャ
「それに、あれはおれが自分の実力を過信したから起きたことだよ。自業自得の結果なんだからそこまで気を使わなくて大丈夫だよ」


「……まあ、お前が平気っていうならそれを信じるけどよ……」

 無理はすんなよと添えられた言葉に笑顔で頷いたところで、店員が注文したものを運んできて、この話は一度中断となった。
 できればもう少しだけ情報が欲しかったが――新しいパターンでスタンピードが発生したとわかっただけでも大きいから、ひとまず良しとしよう。
 奢ってもらったノンアルコールカクテルを口に運びながら、その日、リローヴィリャは心の中でため息を一つついた――。





 過去に聞いたあの噂話をもう一度思い浮かべながら、リローヴィリャは目の前で思考を巡らせる相棒を眺める。
 眼前の彼女があの噂話と関係があるか、まだはっきりとした答えは得ていない。
 己の中でうっすらと考え、予想していることはあるが、あくまでも己の予想。それが正しいとは限らない。
 けれど、もし。もし、薄紅をまとう彼女もスタンピードによる傷を抱える者であるのなら。

 可能な範囲で、旅を楽しめる時間を作りたい。
 もう一度、自分自身に傷をつけた現象と遭遇しても心が潰されないように。耐えられるように。
 冒険者としての日々がつらい時間と記憶ばかりにならないように。

リローヴィリャ
「お、なるほどなるほど。確かにそれもありだねぇ、ランドラはここに来てはじめて見かけた生物だし。……でも成長記録ではないんだ~」


 普段どおりの笑顔を浮かべたまま、予想を口にしてくれた相棒にそう言葉を返す。
 答えは本当に大したことがない、ささやかな日記なんだけれども――まだ自分が彼女に話していないことも記されているから内容は秘密。
 きっと次の瞬間には不思議そうな表情を見せてくれるであろう相棒に視線を向けたまま、リローヴィリャはゆるりと両目を細める。


 いつまでも待とう。彼女が自ら答えをくれるそのときまで。
 そして、そのときまでに自分も心構えを済ませておこう。
 もし、思い浮かべている予想が正しかったら――自分も、一つ。口に出さずに秘めたままにしていることを伝えることになるだろうから。








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