Eno.435 トリサ Ⅳ:『神様』について - はじまりの場所
ここしばらくは川辺に居た。
相変わらずドジなせいで人生初の釣りは川に落ちるし、石を投げようとしたら自分の額にぶち当てる。
テラートが居なければ何もできない。ティカやヘキサスが居て初めて何かを成し遂げられる。
何度も実感させられる度に、脳裏を過るのは、親の声。
役立たずなのだと。要らない子なのだと。
何度も殴られた痛みは未だに鮮明に覚えている。
傷跡は治ることなく身体に残っている。
だからできるだけ見られないように隠して過ごす。
けれど、ここに来て要らない子じゃないと言ってくれた人がいる。
自分の話を聞いてくれた人が居て、知らないことにたくさん触れていけると言ってくれた人がいる。
頭を優しく撫でてくれた人がいる。
ずぶぬれになった私のために火を焚いてくれた人がいる。
意外と、『大丈夫』な人たちがこの世界にも居る。
お陰で、今日の夢は随分と穏やかだった。
前に進むことしかできないのだから、振り返らずに進ぶしかない。
よし。
そろそろ歩き出してみよう。
暗い夜闇の中、何とか歩きだせるような気がした。
どこか遠くで、そんな声が聞こえた気がする。
自分の中に残っている、微かな声が。
声が降りかかる。誰かが部屋から出て行った。
苦しさはある。けれどそれだけだった。
霞がかった意識で、まだ死んでいないことを理解する。視界は晴れないが、暗い部屋の中に居ることは分かった。
誰かが居る。誰だ。知らない人だ。何かを言っている。頭に入ってこない。
どうして私はここにいる。目の前の人は何をしようとしている。
思い出せ。
この世界は悪意しかない。
誰も私を救いはしない。
目の前の者だって例外ではない。
何かを言っている。手を伸ばしてくる。
お前も殴るつもりなんだろう。
蹴って、奪って、踏みにじるのだろう。
させるものか。もう虐げられるものか。
力を振り絞って起き上がり、目の前の人の首に手をかけて、跳ねた勢いのまま押し倒した。
ドンッと鈍い音が響く。目の前の人は石造りの床に仰向けに倒れ、私はそれに馬乗りになる。背中を打ち付けて苦し気に呻いたが、大したダメージではなさそうだ。
何だこいつ。何なんだ。
訳が分からない。殺してどうぞという。だけれど抵抗をするという。
死に対する恐れがない。私によって死が下されようとしているのに笑顔が崩れない。絞め殺そうとするのに、震えてできない。
得体の知れない感情をこいつは向けてくる。言葉の一つ一つに嘘がない。嘘をついているのかもしれないけれど、悪意の類が一切読み取れない。だから余計に読めなくて恐ろしい。
手間取っていると、バァンッと大きな音を立てて扉が開かれる。壊れそうな勢いだったから、跳ね返った扉がキィキィと軋む。
ナイフが私に向かって投げられる。勿論この姿勢で避けれるはずなどない。
身体が反応できるはずもなく、私の身を的確に貫いた―― かに、思われた。
―― ナイフで身を貫かれることはなかった
キィンと甲高い金属音が響いた。壁にナイフが当たったのだとすぐには理解できなかった。
首を絞めていた女が反射的に私を抱きしめて身体を引っ張り、ナイフを躱させたのだ。目の前の女の上で潰れたようになったが、痛くはなかった。首にかかっていた手も離れてしまっていた。
そうして一段と強く抱きしめられて、こんな姿勢のまま、目の前の人は聖歌を歌い始めた。
絶対に息苦しくなって上手く歌えないはずであろうそれは、祈りとして歌うから苦しくないと後で教えてもらった。どこまでも自然で、母が子をあやすような優しい調べだった。
それは駒鳥の死を追悼する童謡だった。それを彼女が聖歌として歌う意味を、このときはまだ分からなかった。
けれど、何も言えなくなって、こみあげてくるものが分からなくて。離れたくなくて、このままで居てほしく、理解する。
この人は、私を救ってくれるのだと。
誰も助けてくれないこの世界で、この人は助けてくれるのだと。
まるで神様のような、この人だけは。
そう思ったら、涙が止まらなくなって。もう暴力に、悲鳴に、自身の存在否定に、何も怯える必要はないと思い知らされたので。
駒鳥の胸は、赤色だ。駒鳥の胸が赤いのは、神の額から茨の棘を抜こうとして、その血に染まったためだと言われている。なんて、そのとき私は知らなかったけれど。
こうして手を差し伸べて、沢山の『赤』を、この人は受け止めてきたのだろう。けれど決して私たちの『赤』に染まることはなく、彼女の『赤』のままである。その赤は、本当に神の与えた赤なのかもしれない。この人は、真っ赤に染まった駒鳥の生まれ変わりなのかもしれない。
この人は、神様なのだと思った。
相変わらずドジなせいで人生初の釣りは川に落ちるし、石を投げようとしたら自分の額にぶち当てる。
テラートが居なければ何もできない。ティカやヘキサスが居て初めて何かを成し遂げられる。
何度も実感させられる度に、脳裏を過るのは、親の声。
役立たずなのだと。要らない子なのだと。
何度も殴られた痛みは未だに鮮明に覚えている。
傷跡は治ることなく身体に残っている。
だからできるだけ見られないように隠して過ごす。
けれど、ここに来て要らない子じゃないと言ってくれた人がいる。
自分の話を聞いてくれた人が居て、知らないことにたくさん触れていけると言ってくれた人がいる。
頭を優しく撫でてくれた人がいる。
ずぶぬれになった私のために火を焚いてくれた人がいる。
意外と、『大丈夫』な人たちがこの世界にも居る。
お陰で、今日の夢は随分と穏やかだった。
前に進むことしかできないのだから、振り返らずに進ぶしかない。
よし。
そろそろ歩き出してみよう。
暗い夜闇の中、何とか歩きだせるような気がした。
テラート
「―― 絶対に助けるから」
「―― 絶対に助けるから」
どこか遠くで、そんな声が聞こえた気がする。
自分の中に残っている、微かな声が。
テラート
「あ、気が付いた! よかったぁ、心配してたのよ」
「あ、気が付いた! よかったぁ、心配してたのよ」
声が降りかかる。誰かが部屋から出て行った。
苦しさはある。けれどそれだけだった。
霞がかった意識で、まだ死んでいないことを理解する。視界は晴れないが、暗い部屋の中に居ることは分かった。
誰かが居る。誰だ。知らない人だ。何かを言っている。頭に入ってこない。
どうして私はここにいる。目の前の人は何をしようとしている。
思い出せ。
この世界は悪意しかない。
誰も私を救いはしない。
目の前の者だって例外ではない。
何かを言っている。手を伸ばしてくる。
お前も殴るつもりなんだろう。
蹴って、奪って、踏みにじるのだろう。
させるものか。もう虐げられるものか。
トリサ
「ゥゥウウウウァァァアアアアッ!!」
「ゥゥウウウウァァァアアアアッ!!」
力を振り絞って起き上がり、目の前の人の首に手をかけて、跳ねた勢いのまま押し倒した。
ドンッと鈍い音が響く。目の前の人は石造りの床に仰向けに倒れ、私はそれに馬乗りになる。背中を打ち付けて苦し気に呻いたが、大したダメージではなさそうだ。
テラート
「……あらあら、元気な女の子ねぇ」
「……あらあら、元気な女の子ねぇ」
テラート
「ごめんなさい、怖がらせちゃったかしら。
でもやっぱりまだ心配だわ、だって全然苦しくないもの。
私のことがもし憎いなら、元気になった後で手にかけてほしいわ」
「ごめんなさい、怖がらせちゃったかしら。
でもやっぱりまだ心配だわ、だって全然苦しくないもの。
私のことがもし憎いなら、元気になった後で手にかけてほしいわ」
トリサ
「……は、何を……」
「……は、何を……」
トリサ
「っ……こ、殺されそうになってるんだぞ、
何でそんな、お前は笑ってるんだよ!」
「っ……こ、殺されそうになってるんだぞ、
何でそんな、お前は笑ってるんだよ!」
テラート
「殺したいの? それなら、いくらでもどうぞ。
だけど、死ぬ気はないから、私も抵抗はするわよ」
「殺したいの? それなら、いくらでもどうぞ。
だけど、死ぬ気はないから、私も抵抗はするわよ」
トリサ
「てっ、抵抗しろよ、今すぐ! お前おかしいだろ、
抵抗するって言いながらなんでなすがままになってんだよ、怖くないのかよ!」
「てっ、抵抗しろよ、今すぐ! お前おかしいだろ、
抵抗するって言いながらなんでなすがままになってんだよ、怖くないのかよ!」
テラート
「殺す、と願ったあなたが私を殺したのなら、
あなたの殺意にあの世で拍手喝采をするわ。」
「殺す、と願ったあなたが私を殺したのなら、
あなたの殺意にあの世で拍手喝采をするわ。」
テラート
「だって私の生きたいという心を、
あなたの殺したいという心の方が勝ったってことになる。
これってとっても凄いことなのよ!」
「だって私の生きたいという心を、
あなたの殺したいという心の方が勝ったってことになる。
これってとっても凄いことなのよ!」
何だこいつ。何なんだ。
訳が分からない。殺してどうぞという。だけれど抵抗をするという。
死に対する恐れがない。私によって死が下されようとしているのに笑顔が崩れない。絞め殺そうとするのに、震えてできない。
得体の知れない感情をこいつは向けてくる。言葉の一つ一つに嘘がない。嘘をついているのかもしれないけれど、悪意の類が一切読み取れない。だから余計に読めなくて恐ろしい。
ティカ
「テラート様!?」
「テラート様!?」
手間取っていると、バァンッと大きな音を立てて扉が開かれる。壊れそうな勢いだったから、跳ね返った扉がキィキィと軋む。
ティカ
「―― 離れなさい!」
「―― 離れなさい!」
テラート
「――っ!」
「――っ!」
ナイフが私に向かって投げられる。勿論この姿勢で避けれるはずなどない。
身体が反応できるはずもなく、私の身を的確に貫いた―― かに、思われた。
テラート
「こら、ティカ!
お客様とじゃれ合ってるだけなのに、危ないじゃない!」
「こら、ティカ!
お客様とじゃれ合ってるだけなのに、危ないじゃない!」
ティカ
「じゃれ合っ……!?
どう見ても押し倒されて、首を絞められていましたが!?」
「じゃれ合っ……!?
どう見ても押し倒されて、首を絞められていましたが!?」
―― ナイフで身を貫かれることはなかった
キィンと甲高い金属音が響いた。壁にナイフが当たったのだとすぐには理解できなかった。
首を絞めていた女が反射的に私を抱きしめて身体を引っ張り、ナイフを躱させたのだ。目の前の女の上で潰れたようになったが、痛くはなかった。首にかかっていた手も離れてしまっていた。
テラート
「大丈夫だった?
いきなり酷いわよねー、ちょっと遊んでいただけなのに」
「大丈夫だった?
いきなり酷いわよねー、ちょっと遊んでいただけなのに」
ティカ
「おかしい。大きな音が聞こえたから慌てて駆け付けたのにこの言われよう。
私が悪いんですか?」
「おかしい。大きな音が聞こえたから慌てて駆け付けたのにこの言われよう。
私が悪いんですか?」
テラート
「頼んでいた薬茶は?」
「頼んでいた薬茶は?」
ティカ
「……心配になって戻ってくることを優先しましたぁ~
そしたらぁ じゃれ合ってるって言われたんですよねぇ~
私命の危機かと思ったんですよぉ~
でもぉ、じゃれ合ってたんですねぇ~」
「……心配になって戻ってくることを優先しましたぁ~
そしたらぁ じゃれ合ってるって言われたんですよねぇ~
私命の危機かと思ったんですよぉ~
でもぉ、じゃれ合ってたんですねぇ~」
ティカ
「えぇ今度こそ行ってきますよ、もう大きな音がしても戻ってくるものですか。
ふんだ。テラートのバカ、もう知らない!」
「えぇ今度こそ行ってきますよ、もう大きな音がしても戻ってくるものですか。
ふんだ。テラートのバカ、もう知らない!」
トリサ
「…………どう、して……」
「…………どう、して……」
トリサ
「……何で、お前は……私を助けたんだ……」
「……何で、お前は……私を助けたんだ……」
テラート
「私があなたを、生きるべきだと定めたから。
だから何があってもあなたを死なせない。あなたが死ぬべきそのときまで」
「私があなたを、生きるべきだと定めたから。
だから何があってもあなたを死なせない。あなたが死ぬべきそのときまで」
トリサ
「……私は……、……お前を、殺そうと……したんだぞ……?」
「……私は……、……お前を、殺そうと……したんだぞ……?」
テラート
「生きたかったから。
そうしないと殺されると思ったから。だから殺そうとした。
……今まで大変だったんでしょう?たくさん痛い目に遭って。
もう大丈夫よ、何かあったら私が守ってあげるから」
「生きたかったから。
そうしないと殺されると思ったから。だから殺そうとした。
……今まで大変だったんでしょう?たくさん痛い目に遭って。
もう大丈夫よ、何かあったら私が守ってあげるから」
トリサ
「っ……なんっで、何で赤の他人に、そこまで!」
「っ……なんっで、何で赤の他人に、そこまで!」
テラート
「あなたは私の心を揺れ動かした。強い感情で、私の心を揺さぶった。
その時点で、私にとって赤の他人じゃないのよ」
「あなたは私の心を揺れ動かした。強い感情で、私の心を揺さぶった。
その時点で、私にとって赤の他人じゃないのよ」
そうして一段と強く抱きしめられて、こんな姿勢のまま、目の前の人は聖歌を歌い始めた。
絶対に息苦しくなって上手く歌えないはずであろうそれは、祈りとして歌うから苦しくないと後で教えてもらった。どこまでも自然で、母が子をあやすような優しい調べだった。
テラート
「―― 駒鳥を殺したのはだあれ ♪」
「―― 駒鳥を殺したのはだあれ ♪」
それは駒鳥の死を追悼する童謡だった。それを彼女が聖歌として歌う意味を、このときはまだ分からなかった。
けれど、何も言えなくなって、こみあげてくるものが分からなくて。離れたくなくて、このままで居てほしく、理解する。
トリサ
「…………ぅ、……ああぁ……っ」
「…………ぅ、……ああぁ……っ」
この人は、私を救ってくれるのだと。
誰も助けてくれないこの世界で、この人は助けてくれるのだと。
まるで神様のような、この人だけは。
そう思ったら、涙が止まらなくなって。もう暴力に、悲鳴に、自身の存在否定に、何も怯える必要はないと思い知らされたので。
トリサ
「ぅうっ…………、ぁ……っ……、
……ぁああああぁあああっ!!」
「ぅうっ…………、ぁ……っ……、
……ぁああああぁあああっ!!」
駒鳥の胸は、赤色だ。駒鳥の胸が赤いのは、神の額から茨の棘を抜こうとして、その血に染まったためだと言われている。なんて、そのとき私は知らなかったけれど。
こうして手を差し伸べて、沢山の『赤』を、この人は受け止めてきたのだろう。けれど決して私たちの『赤』に染まることはなく、彼女の『赤』のままである。その赤は、本当に神の与えた赤なのかもしれない。この人は、真っ赤に染まった駒鳥の生まれ変わりなのかもしれない。
この人は、神様なのだと思った。