Eno.153 ヨギリ  はじまりの記憶 - ひかりの森







──。



……ここは、どこだっけ。






開けた視界の先、整えられた街並みとその場に集った来訪者たちの姿を前にして。
荷物鞄を片手に提げたひとりの男は、ぼうっとした顔でその風景を眺めていた。

暫く暗がりに居た人間が急に眩しい場所へ出ると、目が光に慣れるために時間を要するという事があるが。
この男にも似た様な事が起きていて。
眼前の風景と光と音、人々の声、それらを認識するためにやや時間を要していた。



なんだか人で賑わっている。
見える限りだと……人型からそうでない種族まで。
整った街らしい風景も見える。
空がすごく広い。



そんな感覚が訥々と落とし込まれていく。
綺麗なところ。いろんな人が居る。街がある。
大まかにはそんな認識がゆるゆると象られていく中で。




「……、」

「……俺、今まで何してたんだっけ……」




虚ろな呟きが零れる。
男の瞳は遠くの賑わいを見つめたまま、呟かれた問いに返ってくる声は無かった。






今まで何をしていたのだろう。

どうしてここにいるのだろう。



……俺は、誰だっただろう。






浮かび上がってくる問いに応える声が、自ずから出てこない。
外の風景はこんなにも朗らかで、人びとは活気に満ちているのに。
俺は今、なにひとつ自分の事が分からない。

どうにか少しばかりでも記憶の欠片を探ろうと試みて。
その試みが全て、霧中に消える様に失われていく感覚だけが残される。
それを何回か繰り返して。やがて同じ結果にしかならない事が分かると、諦めてひとつ小さなため息をついた。



「……、」



ふと。
ため息と共に視線を下ろした先、自身が片手に携えている旅行鞄が視界に入る。
……手荷物だ。

見覚えがある様な気もするし、いまいち無いような気もする。
そんな奇妙な感覚を抱きながらも。この中なら何か、自身に関する手掛かりがあるかも知れない。
そう思った男は近くの適当な所へ移動し、一度この鞄を開けてみる事にした。

外見は何でもない、特に特徴がある様にも見えない旅行鞄。
トランクとも呼ぶのだろうか。横長い四角の形に取っ手があり、2本のベルトで固定されている。



腰を落ち着けて、両足で屈んで……、……。……そういえばこの脚、改めて見てみると人工物だ。
気が付かなかったな、と取り立てて違和感を感じないまま。
トランクのベルトの金具を外し、両手で鞄を開いてみる。






「……、……。……なんだかいろいろ入ってる」

「……? この本、何かメモが……」



「……『最初にこのメモの文章を読むこと』?」



それは鞄を開いた時、真ん中に位置付けられていた青表紙の本。
タイトルや著者名は無く、書籍というより本型のノートの様にも見えた。
本の表紙部分には一枚のメモが貼り付けられている。非常にシンプルな指示付きで。

男の瞳はここに来て初めてぱちり、と表情らしい瞬きをした。






「……。」

「……『昨日の出来事を覚えているか?』」

「『一週間前、1ヶ月前の出来事は?』」



メモの文章を読み上げる。
それはチェックリストの様に質問が連なっていて、すべて記憶に関する内容だった。



「『自分が誰なのか分かるか?』」

「『知人、友人のことは覚えているか?』」

「『もし覚えていない、分からない場合は次のことを確認すること』……」








『──そう。そうやって書いておけば、万が一の時の備えになるだろう?』



「……『このメモが貼ってある本の内容をよく読むこと』」



『お前の解離性健忘……いわゆる記憶喪失はまだ回復していない。
 だからこれから先、日々の記録はできる限り書き残しておいた方がいい』



「……、……『何か経験した事はなるべくメモしておくこと』」



「──後から読み返せる様にしておくんだ。
 すべてを頭の中で完璧に記憶しなきゃいけない、なんて事は無い。
 書ける時に書いておけばいい。簡単でも構わない。だから──」










「──だからお前は、大丈夫だ。」







ヨギリ
「────、」


ヨギリ
「……俺、俺は……何か、忘れてる事が、あるんじゃ……」




今、脳裏を過ったのは誰だったのだろう。
分からないままに驚いて、瞳を見開きながら。男は震える声で呟いた。

相変わらず過去の記憶は無いし、自分は何者なのか分からない。
きっと親しかったであろう人びとの顔も名前も、出来事も思い出せない。

それは他人に対してひどく恩知らずの様な、薄情な気がしていて。
あの眩しい光の中に。来訪者で賑わう美しい庭園へ踏み込むことに、躊躇いを感じていて。






それでも。
自分は今、少なくとも。"何か忘れている事があること"を『思い出した』。






ヨギリ
「……俺は、……俺は何を……誰と、何をしてたんだろう……」







ざり、と地を踏む音が響く。黒銀の両足が──失った下肢を補う義足が小さな金属音を立てる。






ヨギリ
「……もう一度、」







もう一度。
誰かに会いたい。
何かを、思い出したい。






こうしてこの男は束の間を庭園で過ごす事になる。
当て所ない永い旅の中で。








<< 戻る