Eno.153 ヨギリ  名も無き記憶 - はじまりの場所







! Attention
-重い話題があります。
-この物語はフィクションです。



























月が、綺麗な夜だった。








「……あーあ」




溜息がひとつ溢れる。
ひとりの女が、奥行きのある窓辺に腰掛けながら夜の街並みを見下ろしていた。
すっかり陽の落ちた街。街頭が仄暗く道路を灯し、行き交う人影の数は少ない。

家庭ではそろそろ夕飯も終わり、団欒のひとときを過ごす様な時間帯。
この女にはそんな夜から外出しなくてはならない場所がある。
それは、




「……仕事、行きたくないなー……」




職場であった。

それは女が住む居住区から歩けば程なくして着く距離にある。
遠い訳ではない、が。



仕事したくない。
行きたくない。
できれば職場だけ爆発してほしい。



窓辺に座る女はそれらの感情で心底動きたくなかった為に。
あと5分だけという時間を己に与えて、僅かな時を怠惰に過ごす事を許していた。

せめて今日の客の引きが悪くない事を薄らぼんやりと望む。
昨日接客した客は酷かった。
乱暴で力任せで、危うく暴力の一歩手前で。

今の職場は一応は客を見定めてから入店させる。
が、事前確認で全ての危険人物を排除できる保証があるわけではない。
入店時には危険性が見定められなかった客が、部屋で2人きりになった瞬間いきなり暴力的になるという事はままある。



でもなんだか、そんな状況にも慣れてしまった。
どうせこんな仕事なのだから。




「……。……今更、この仕事以外の生き方も分からないし」




誰にも聞こえない呟きが溢れる。
女は今およそ20歳程度。
そしてこの仕事を始めたのは約10年前。









約10年前。
彼女は自分が生まれた場所から逃げた。
人口増加による経済成長を図ろうとした政府の施策で、中絶と避妊が法律で禁止された《宿った命は必ず生まれなくてはならない》国から。






子どもの数が爆発的に増えたその国は──政権が崩壊した。
















彼女は政権の落とし子。
法令によって生まれた子どもたち。
そのひとり。









自力で世界を生き延びるために、彼女が差し出せるものは自分の身体だけだった。
春をひさぐ。夜伽の相手で対価を得る。他のやり方は知らない。



日の当たる場所には居られない仕事。
女は夜に勤めをして朝に帰る。
退勤後、帰り道の朝焼けの中で時折すれ違う住人は一瞬嫌そうな視線を向ける。
そして自分たちが暮らす日常へ足早に去っていく。



その視線を見る度に女は思う。






分かる。

そうだよね。嫌なの分かる。

分かるよ。






女は同意していた。
自分の職業が多くの一般人にとって嫌厭される事に。



彼女は文字が読めない。書けない。
簡単な計算はできるが、それ以上の事は知らない。
学校に行ったり家庭があったり、身の安全が保障される場所で過ごす事を知らない。



でも不幸じゃない。
それがどんな事か知らないから。
だから何も感じない。


 
大丈夫。
私は分かってる。
弁えてる。






……そうでしょう?
そうだよ。
そうである筈なんだ。








「──……」



「……はあ。そろそろ行かなきゃ」




街の風景を遠いまなざしで見ていた女はやがて、もう一度だけ溜息をついてからゆっくり腰を上げる……前に。
何かに気が付いて小さく声を上げる。







「……あ、これは外さないとね」














それは青い石が嵌め込まれた首飾り。



これは数年前にたまたま街中で見つけたものを買った品で、それからよく身に付けていた。
仕事の時は付けない。首元に絡まるかも知れないし、万が一に壊れてしまうかも知れない。




「……買っちゃったんだよなあ。どうしても欲しくて」




その時の事を思い返しながら淡く微笑む。
自分と同じ瞳の色をした首飾り。それを鍵付きの箱にしまい、遅れ馳せながら身支度を始める。



服を着替えて髪を梳かす。頬に粉をはたいて口紅を塗る。最後に香水をほんのひと吹き。



そうしてようやく出かける準備を終えた彼女は、宵闇に降り立った。


















──月が、綺麗な夜だった。










月夜の明かりに照らされて、女は石畳を歩く。
自分の靴音だけが遠く響いていく様な夜の中で。
青白い光を見上げながら、ふいに女の脳裏に微かな記憶が揺れ動く。









『──ねえ、知ってる?』

『夜にしか咲かない珍しい花があるんだって』











それは確か、まだ彼女が生まれた国を逃げ出す前の記憶。
孤児院にひしめき合う子どもたちの誰かが話していた事。
夜にしか咲かない花の話。









『朝になると花はしぼんでしまうの』

『白くて大きくてきれいな花が、夜にだけ咲くのよ』











「……」







そんな花、本当にあるんだろうか。
花って水とか太陽の光で咲くものなんじゃないんだっけ。
誰かが作った空想だったんじゃないかと思う。






(……でも)






でも。
もし本当にそんな花があったなら。
きっと綺麗な花だと思う。



夜にしか咲かない花。
宵闇の中で人知れず目覚めて明け方に眠る、白い大輪。







「……ああ。本当にあったら、見てみたいな」







月明かりの下で女は微笑む。
空想の花が咲いた姿を脳裏で描く。













石畳を鳴らす靴音の主はそうして夜の扉を叩き、──暗闇に消えていった。











これは名も無き誰かの記憶。
彼女はもうこの世にはいない。
亡くなってから季節は移り、星は廻り、時代は巡った。














時は現在に至る。



ヨギリ
「わあ、今夜はよく晴れてるね」




夜空を見上げながら呟く男がいる。
今夜は快晴で雲ひとつない。星が瞬く光が綺麗だ。




「……空って、どんな時間でも綺麗だな」




そう思う。
朝も昼も夜も、早朝も夕方も。夜中の暗闇も、夜明けの暁光も。
見上げる空はいつも綺麗だ。



それは記憶を失い、もう一度それを辿ろうとする義足の男。
首飾りと同じ青い瞳の色をした青年。






それが誰かの遺品である事を。
彼は今、憶えていない。












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