Eno.607 茶磨  大きな牙の記憶 - ひみつの庭

雨がしとしと降る日でした。

若いたぬきは雨宿りをしようと急いで走っていたのでした。
雨の日なものですから、いつものにおいとちがうにおいがあちこちからします。
ですから気づかなかったのです。

地面におおきな口のするどい牙があることを。

一瞬のことでした。
たぬきがそこに足を踏み入れた瞬間、おおきな牙がばちんと閉じたのです。

ギャンっ

と、たぬきの声があがります。

けれど雨の日です。
誰にも声は届きません。

おおきな牙はたぬきの足にがちりとくい込み開きそうなにありません。



足を動かすほど牙はどんどん食い込みます。

雨はとても冷たく寒くて、
誰もこなくて、
たぬきはこのまま死んでしまうのだと思いました。

雨が降ったまま夜を迎えたときでした。

頭に雨粒をなにかが遮ります。
屋根とも、おおきな葉っぱともちがいます。
雨夜だというのに、星空を切り抜いたような丸が浮かんでいます。

「※※※?※※※!」

雨の代わりになにかの声が降って来ます。

「※※※、※※※……」

人です。
知らない人です。

話しかけてきますが、たぬきには何を言っているのかわかりません。
ですから、とてもとても、こわくてこわくて、こちらに伸びてくる手に

がぶりっ

噛み付いてしまいました。

その人は痛そうに、でも困ったように笑います。

「※※※よ……だい※…ぶ……」

その時です。不思議なことが起こりました。
人の言葉がわかるようになったのです!
何が起こったのかわかりません。
混乱したたぬきは低くした耳をさらに低くし、毛はざわざわと逆立てています。

「ひどく血のにおいがしたものだから、死んでしまったのかと……
 こわがらせてごめんなさい」

「……」

「でも、あなたはまだ噛みつく元気がある……
 それは生きたいってことよね?
 もしよかったら、私が助けてもいいかしら?」

「……、……」

たぬきは噛み付いていたその口をゆっくり離しました。

「これってトラバサミかしら?こんなくい込んで……
 錆びついているし、きっと仕掛けた人は忘れているわ」

大きな口と牙はトラバサミという人間がつくった罠でした。

「私の力ではこじ開けられないわね…」

トラバサミはぴくりとも動きません。
雨の中、長い時間考えていました。
それからその人はたぬきの頭をやさしく撫でます。

「今からとっても痛いことをするわ。
 でも必ず治してあげる。
 ――だから私のこと信じてくれる?」

たぬきは小さく、けれどつよく頷きました。

「痛かったら噛み付いてもいいからね」

たぬきの大きな大きな声があたりに響きました。

しかし、それははげしい雨音にかき消されました。


――つづく。








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