Eno.534 玲沙  龍のお話 底と空と - ひかりの森

龍は、真っ暗闇の中で目を覚ましました。
体を起こすと、あちこち痛みました。しかし、大怪我はしていないようです。
周囲を見回しても、息が詰まりそうな暗闇が広がっていました。
そうだ。谷底へ落ちたんだ。龍は思い出しました。
上を見上げると、細い糸のような、亀裂のような空の色が一筋見えました。
あんなところから落ちて、よく生きていたなと。龍は思いました。
そこで、漸く。右の耳から慣れ親しんだ重さが消えていることに気付きました。

龍は慌てて火を灯しました。
谷底は、僅かな灯火なんてすぐに飲み込んでしまいそうな程に広く、暗い空間でした。
それにもめげず、龍は地面を這うように探しました。
そして、それを見つけました。

砕け散った耳飾りでした。
紅い石のついたそれは、今は亡き番が翠の龍に贈ってくれたものでした。
龍が谷底に叩きつけられる瞬間、身代わりの効果が発動したのでしょう。
番が護ってくれたのだと思いました。
同時に、大切にしていた宝物が壊れてしまった事を悲しみました。
それでも、左耳の飾りは無事に残っていましたので、まだ良かったのかもしれません。
龍は耳飾りの残骸を丁寧に拾い集め、少し泣きました。


龍は谷底で暫くぼんやりとしていました。
酷く疲れていたので、何もする気になりませんでした。
少し眠って、ふっと起きて。
何度かそれを繰り返し、うんざりするような倦怠感が少しだけ軽くなった時。
遠くから、音が聴こえました。
それは鈍い音でした。ある程度の重さと柔らかさを持ったものが、高所から落とされたような。
少し湿っぽい感じもしました。金属音も混じっていたように思えました。
龍は、億劫でしたが音のした方へ歩いて行きました。

歩く龍は、変な臭いがする事に気付きました。
生臭くて、好きになれなくて。けれど何度も嗅いだ覚えのある臭いでした。
灯火を増やし、周囲を明るく照らしました。
少し離れた所に、黒ずんだ赤い水溜りができていました。
あちこちによく分からないものが飛び散っていました。
原形は留めていませんでしたが、散らばったガラクタには見覚えがありました。
勇者が着ていた服や鎧が、こんな感じでした。

龍は空を見上げました。
勇者は落ちたようです。原因は分かりませんでしたが、谷底で肉塊になったのは確かでした。
勇者がここにいるという事は、魔王討伐は失敗したのでしょうか。
それとも、討った後に落ちたのでしょうか。
相打ちになったのでしょうか。
龍には分かりませんでしたし、興味も湧きませんでした。

勇者の残骸から離れ、龍は適当に歩きました。
あれ以降、落ちてくるものはありませんでした。
他の仲間たちは、無事だったのでしょうか。
落とされないだけで、地上で息絶えたのでしょうか。
取り留めも無い事を考えては、龍の中に虚しさだけが溜まっていきました。

歩いているうちに、谷底にはいろんなものがある事に気付きました。
石のようなもの。骨のようなもの。肉のようなもの。花のようなもの。
それらがでたらめに合わさったり、バラバラに弾けたりしていました。
龍は横目で見ながら歩きました。
それらも、龍に興味を示したようには見えませんでした。

龍は、自分の体もよく分からない事になっているのではないかと思いました。
何故なら、随分歩きましたがお腹が減りません。
体の中が軽く、スカスカで、酷く朧げな存在になっているように感じました。
谷底に長くいると、そうなってしまうのでしょうか。
それでも、龍は怖くありませんでした。あるがままを受け入れたのです。


いつの間にか眠っていた龍は、夢を見ました。
辺りは谷底と同じように真っ暗でしたが、周囲の様子はよく見えました。
龍の前に、一振りの剣がありました。
剣といっても、立派なものではありません。細長い枝のような、骨のような。白く頼りない剣でした。
龍が剣を手に取ると、不思議としっくりきました。
長年愛用していたもののように、龍の手に馴染みました。

剣を携えた龍に、向かってくるものがありました。
白い人でした。
人のような何かでした。
人のような何かは、呪いの言葉を叫びながら龍に飛びかかってきました。
龍は剣を振りました。
軽く、空を切るような感触でした。
人のような何かは、恨めしそうに消えて行きました。

それを皮切りに、沢山の人のような何かが龍を襲いました。
龍は表情一つ変えず、淡々と剣で掃って行きました。
段々と、人のような何かが何であるのか、龍には分かってきました。
人のような何かは、かつて龍を襲った兵士たちであり、魔術師たちであり、竜殺しであり、有象無象の民でありました。
それらが口々に恨み言や呪いを叫びながら、龍を呪い殺さんと飛んでくるのです。

そして、龍はそれらを簡単に始末できてしまう理由にも気付きました。
龍の剣は、龍の中の負の感情でできていました。
怒り、悲しみ、痛みに苦しみ。怨嗟。苛立ち。復讐心。
長年龍の中に降り積もっていた負の感情は、有象無象の恨みなんかよりずっと強かったのです。

龍は気が付くと笑っていました。
呵楽呵楽と笑い、歌い、剣を振りました。
私を殺したければ、私に負けないほど強い負の念で来い。
そんな事は不可能だと知りながら、龍は有象無象を斬っては掃い、斬っては掃い。
龍の体に返り血が飛びますが、そんな事もお構いなしに。
呵楽呵楽と。呵楽呵楽と。呵楽呵楽と。

呵楽呵楽。呵楽呵楽。呵楽呵楽。呵楽呵楽。呵楽呵楽。

呵呵呵呵。呵呵呵呵呵呵呵呵。呵呵呵呵呵呵呵呵呵呵呵呵呵呵呵呵。

呵呵呵呵呵呵呵呵呵呵呵呵呵呵呵呵呵呵呵呵呵呵呵呵呵呵呵呵呵呵呵呵!!!!!!


龍は、目を覚ましました。
飛び散った血で汚れていた頬は、龍の涙で濡れていました。
剣はありません。怨嗟の声もありません。
龍は、あれが夢で良かったと心から思いました。
そのまま蹲り、暫く泣いていました。



それから、どれ程の時が流れたでしょう。
虚ろで朧な残骸になった龍は、空を仰ぎました。
遠く、遥か遠くに、亀裂のような空色が見えます。
谷底には無い空色を眺めているうちに、龍の中に温かいものが生まれました。

もう一度、あの空を泳ぎたい。
風を纏って、光溢れる世界を、どこまでも自由に。

龍は考えるよりも先に行動していました。
崩れそうな体に幻術を纏い、在りし日の翠の龍になって。
力強く、冷たい闇の底を蹴ったのでした。



──一度は終われる事に安堵したけれど。きっと、生きたかったのだ。



 








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