Eno.108 日野森 玲  スマホの充電が切れたのだ - はじまりの場所


「別に、そんな大したことがあったわけじゃないんですよ」


スマホの充電が切れたのだ。
きっかけはそんな些細なものだった。
いつもはアラームをかけたり、マップアプリで住所検索したり、
そうやって生活をどうにかしていた道具がダメになってしまったのだ。


「ね。だから、別に」



「大したことではないんです」


例えば、家を出てから日付や時間感覚が薄れている事だとか、たまに記憶が飛んでいてとても怖い事だとか、だから寝るのが嫌な事だとか、休んでいい場所がわからなくなってしまった事だとか、帰り道がよくわからなくなってしまって困ってしまう事だとか、うっかりとよくわからない事をしてしまうことが増えている事だとか、そんなものは、アラームだとかマップアプリだとかで、鳴らしたり住所打ち込んだりで一応はどうにか出来ていたわけで。
部屋を定期的に整理して、引っ越し前だか遺品整理だか、簡素な状態にすると安心するとかだって、そりゃ異常かなとは思っていたわけだけど、だからってどうしようもなかったわけで。


だから、大したことは、何も。

何もなかった。

放り捨てたスマートフォンの画面が真っ黒で、
ダメになってしまった自分に重なったような、
大丈夫じゃなくても良いのだと許しを得られたような、
そんな錯覚を覚えたことだけを覚えている。

心配なことがなくなった、と言うよりは、自分に出来ることはもうあんまりないんじゃないか、なんていつもある無力感が少しだけ重くなったというだけで。
やらなきゃいけない、と思っていた事がなくなると、すっぽりと目の前に何もなくなって、何をしてたらいいかだとか、何をしたいだとかあんまりないな、だとか。
別にそれは、いつものことだったし。別に要らないんじゃないか、なんて考えるのだって癖のようなものだったし。
帰り道がわからなくなってようやく、存外自分はあの家をきちんと家だと思っていて、そう言えば母との思い出はあの家にしかないのかと気づいたのだってそこそこ前で。


だから。
大したことは、何も。

散乱し続けては散らばっていた頭の中の言葉達が一度霧散して。
結局のところ堪えがたかっただけなんだろうと思う。

スマホの充電が切れてしまったから。
連絡出来なかったのだと言ったら、許してくれるだろうか。
怒られそうだなぁ、なんてぼんやりと思った。

公衆電話、どこかにあるかな。
渡部さんとトカゲさんくらいには、連絡をした方がいい気がする。
……トカゲさん繋がるのかな、電話。渡部さんにだけでも伝えておかないと。
声だけなら、不調だってきっとばれない気がした。わからないけど。


「行くなら、北がいいな」


足が止まるまでは、進もうか。
別に行きたいところなんて、ないけれど。
動けなくなるまでは。








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