Eno.125 図書塔の眠り魔女  1節 ある図書塔の朝 - はじまりの場所

図書塔に住むという眠り魔女には、数え切れぬほどの噂がある。

ある者は語る――魔女の涙をひとしずく口にすれば、不老不死になれるのだと。
またある者は語る――彼女と目を合わせた者は、一番大切な記憶を失うのだと。

恐ろしい話ばかりではない。

むかし干ばつに苦しんだ村を、ひととき目覚めた魔女が救ったとか、
迷い込んだ子どもを抱き上げ、優しく眠らせてくれたとか、

そんな、まるでおとぎ話のような伝承も残されている。

だが、この街に暮らす人々からは怪談めいた囁きも絶えない。

夜に三度その名を呼べば、夢の中に引き込まれる
本棚の奥を覗けば、夢の中の彼女に会ってしまう
夢に出会った者は二度と目を覚まさなかった


中にはもっと軽口めいた噂もある。

実際は寝てるだけで、仕事は全部司書任せなんだよ
いや、食べすぎて動けないんだってさ


真顔でそう言って笑い合う者たちもいる。

もっと他にこんな美談まである。

戦で傷ついた者が塔に迷い込み、魔女に抱かれて眠った。翌朝、傷はすっかり癒えていた
ある老学者は、魔女に夢を見せられてから数日後に亡くなった。だが顔はとても安らかだった



こうして積もり積もった噂は、恐ろしくもあり、滑稽でもあり、優しくもある。
数百年、数千年という時を経て、人々は魔女を知るようでいて、結局のところ誰も真実を知らない。

何年生きているのかも、どこから来たのかも。

なぜなら本人は語ろうとしない。

というより、語ってもらえない。

彼女は、ほとんど眠ってばかりいるのだから。


そして、今――。


私の目の前で聞こえてくるのは。



「すぴ、すぴ……すぴょー……」

「…………。」


噂のどれひとつとして、目の前の寝顔には当てはまらない。
その姿には、不思議さも底知れなさもかけらほどもなく。
ただ水色の長い髪をぼさぼさに乱しながら、子どものような寝息を立てているだけだった。




1節 ある図書塔の朝




「魔女様、起きてください」

返事はない。

「魔女様」

二度目。やはり寝息だけ。

魔女様

三度目。体をそっと揺すると、ようやくうめくように声が返る。

ん……んぅ……もう、少し……」

「もう少しって、どのくらいです?」

百年

駄目です!

小さくうめきながら、魔女様はその上体を起こす。
水色にも青色にも見える長い髪が肩からこぼれ、半分眠たげな瞳がじっとこちらを見つめてくる。

「……起きました?」

「やんわりと」

(やんわりってなんですか……)

思わず心の中で突っ込みを入れながら、次の言葉を出す。

「ほら、今日は新人との顔合わせですから、支度してください。髪は私がすきますから……。」

「うー……もう少しいたかったのに……

「夢の中に、ですか?」

「そう。いたかったの、」

じゃなくて現実にいてください、魔女様」

「……」

むっとした顔をされる。

「そんな顔しないでくださいよ」

「そんな顔するわよ」

「そんなに寝たいんですか?」

「寝たいわ」

真っ直ぐな瞳。冗談をいっているのではない。

「……とにかく、今日は顔合わせの日ですから、ちゃんと起きててください」

「はあい……」

大きくあくびをして、魔女はのろのろと立ち上がる。
その拍子に髪の先が泡に触れて、ぷちりと弾けた。

「まったく、また泡を枕にして寝てたんですか?」

「……どこでも寝れてきもちいいわよ?」

「利便性の問題じゃありません。せめてちゃんとした寝具で寝てくださいよ……。」

「……」

名残惜しそうに、まだ手のひらで小さな泡を弄んでいる。

「髪も絡まってますよ。じっとしてくださいね」

櫛を入れると、彼女は素直に目を細めている。

「……子どもみたいですね」

「そんなに子どもかしら」

「今の寝起きの顔は、完全に子どもでした」

…み…………」

「え?」

「……」

「今、誰かの名前を呼びました?」

「呼んでない」

「呼んでました」

「……夢の続きよ」

視線を逸らされる。追及しても無駄そうなので、ため息をついた。

「もう……仕方ないですね。せめて今日だけは、寝ないでいてくださいよ」

「約束はできないけど、努力はするわ」

「努力って……」

けれど、その眠たげな笑みは、どこか姉のように柔らかく、つい許してしまうのだった。








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