Eno.733 木早 永心 この地での記録13 - はじまりの場所
寒さが日に日に増してきた。
この島に着いた時にはまだ汗ばむような陽気だったというのに、月日の経つことの早さに驚かされるばかりだ。
思えば色々なことが有ったなと、そんなことを思い浮かべながら宿の湯舟へ向かう。
寒くなるこの時期は身体のあちこちが痛む。
家を出て以来、命のやり取りを数えきれないほどした。
何時しか身体には多くの傷が刻まれており、それらの傷がまるで強者との闘いを忘れるな、と訴えるかのように痛むのだ。
この傷はあの時の男に斬られたもの、これはあの矢が当たった時のもの…
古傷となった幾つかの傷を眺めれば、それが何れの時の傷だったかは容易に思い出せる。
その筈だった。
「これは…?」
ふと右腹に刀傷が有ることに気付いた。
傷口の様子から左程古くない傷だと思われる。
1年は経っていない。
「馬鹿な…。」
唸る。
まるでこの傷に思い当たる記憶が無いのだ。
だが、傷跡の形状を見る限り致命傷であり、これを己が気付かなかったなど信じられるものではない。
いや、もし気付かず放置していたのならば既にこの身は亡骸となっている筈だ。
必死にこの傷についての記憶を探そうと過去の出来事に思いを巡らせる。
…この島で生じた傷ではないだろう。そこまで新しい傷でもない。
ならば、この島に来る前の傷だろうか?
死神
何時しか頭に思い浮かんだ一つの単語、それはこの傷跡に関係があるものなのだろう。
妙に確信的にそう判断し、必死に記憶を探る。
「死神……死神…。」
何時しか額に脂汗が流れていた。
心臓が激しく脈打っている。
これは…この感情は……恐怖なのか?
「死神…沙羅 正斎…ッ!!」
一つの名前が脳裏に浮かび上がった。
その名を思い出すと同時に、今まで思い出せなかった記憶が一気に流れ込んできた。
…
……
………
それは不思議な話だった。
空中に浮かぶ島、そこには自然豊かな庭園が有る。
そして、理由は不明だが多くの人々を招いているのだ。
何らかの罠か、それとも慈善事業というものか。
真意は定かではないが大いに興味を惹かれるものだった。
「…某も見てみたいと思っています。」
何の偶然か己の手元に届いた招待状に誘われて、島に向かう道中のこと。
ふとした縁が元で、同じく島に向かうという男と道を共にした。
男の齢は20を過ぎた頃だろうか。
遠い異国の神を信じる僧侶だったが、善良な性格であり、他人に説教を強いる訳でもなく、ひねくれ者の己でも自然に接せられたものだ。
それだけに、その名を男から聞かされた時には驚くしかなかった。
沙羅 正斎(さら しょうさい)
己とは面識も所縁も無い名だが、その名は放浪の旅をする内に自然と己の耳にも届いていた。
端的に言えば、凄腕の剣士であり暗殺者。
大金を積まれれば、年齢性別思想を問わず誰でも殺めるという。
そして、依頼された仕事は必ず成功させる…即ち、沙羅 正斎に狙われたならば、それは死を意味するのと同義だと。
故にその異名は"死神"
「沙羅 正斎が、お主を狙っていると?」
「…その、可能性が…少しだけ有るんです。」
あくまで確証の無い話だと言いながらも、男の表情には怯えが滲んでいた。
事情を聞けば、一週間ほど前まで男は同じ神を信ずる複数の僧と共に各地を修行の為に行脚していた。
しかし、一週間ほど前のその日、単独で街に買い出しに行った男が宿に戻った時には仲間の僧ら全てが殺されていたというのだ。
無論、それだけでは沙羅 正斎の名には結び付かない。
「は…薄情にも、私は仲間たちの遺体を置いて逃げました。
何故仲間たちが殺されたのか、その理由を探ることよりも…彼らを弔うことよりも…ただ怖かったんです。
もしかしたら、仲間たち同様に私も命を狙われているのではと…。」
こうして飛び出すように町から逃げ出し、ただ遠く遠くへと逃れる中で少しずつ、何故? 誰が仲間を殺めたのか? と考えるようになったと言う。
そして唯一心当たりとして思い付いたのは、僧達が所持していた書簡だった。
書簡に何が記載されていたのかは分からない。
ただ、僧達が各国を行脚する中で、宗教内の伝達の為に書簡を預かることは珍しくも無かった。
「…書簡が理由ではないかと思い至ったのは、その書簡を私達に渡した寺院もまた何者かの襲撃を受け破壊されたのだと…
そんな噂を耳にしたからなんです。
同時に、それを行ったのが沙羅 正斎だという噂も…。」
「…して、その書簡は今は?」
男は首を横に振る。
「私は持っていません。
殺された仲間たちが持っていましたので…。」
成る程、と頷いた。
本当に沙羅 正斎が絡んでいるかは不明だが、兎角何かしらの厄介なことに男が巻き込まれてしまったのは確かなようだ。
書簡を失った以上、もはや狙われることも無いかもしれないが…書簡の中身を知っているのだと思われれば、男は狙われるかもしれない。
「…だから、この招待状に頼って島に逃げようと思ったんです。
仲間たちのことを思えば、これが不義理なのはよく承知していますが、今は…寺院に逃げ込むより良いのだと…。」
「分かる話です。……その判断を誰が責められましょうか。」
こうして僧侶の男を見放すことも出来ず、暫く旅を共にしたのだ。
そして、島に近づいたある日の夕暮れのこと、死神は己の前に現れた。
………
……
…
「死神、だな? ……。」
刀を鞘から抜き放ち身構える。
己の背後に僧の男を隠し、隙を見せまいとする。
だが…だが…己の息が荒い。
対峙するだけで気圧される、今まで闘ってきた者達とは比較するべくも無い強敵…いや、化物だ。
明らかに己の腕前では歯が立たぬと分かる。
「眼帯をした剣士の噂…聞いたことがあるゾ…。」
細身の黒衣の男がそう言うと、剣…いや、刀を抜き放った。
殺意が…死の気配がより濃くなった。
己の手が震える。その震える手で何とか眼帯を脱ぎ捨てた。
「眼帯をしたまま闘うのではないのか? ツマランなぁ。」
死神が笑った
「逃げろぉぉおおっ!!」
背後の男を後ろ蹴りし、己は死神に斬りかかった。
この島に着いた時にはまだ汗ばむような陽気だったというのに、月日の経つことの早さに驚かされるばかりだ。
思えば色々なことが有ったなと、そんなことを思い浮かべながら宿の湯舟へ向かう。
寒くなるこの時期は身体のあちこちが痛む。
家を出て以来、命のやり取りを数えきれないほどした。
何時しか身体には多くの傷が刻まれており、それらの傷がまるで強者との闘いを忘れるな、と訴えるかのように痛むのだ。
この傷はあの時の男に斬られたもの、これはあの矢が当たった時のもの…
古傷となった幾つかの傷を眺めれば、それが何れの時の傷だったかは容易に思い出せる。
その筈だった。
「これは…?」
ふと右腹に刀傷が有ることに気付いた。
傷口の様子から左程古くない傷だと思われる。
1年は経っていない。
「馬鹿な…。」
唸る。
まるでこの傷に思い当たる記憶が無いのだ。
だが、傷跡の形状を見る限り致命傷であり、これを己が気付かなかったなど信じられるものではない。
いや、もし気付かず放置していたのならば既にこの身は亡骸となっている筈だ。
必死にこの傷についての記憶を探そうと過去の出来事に思いを巡らせる。
…この島で生じた傷ではないだろう。そこまで新しい傷でもない。
ならば、この島に来る前の傷だろうか?
死神
何時しか頭に思い浮かんだ一つの単語、それはこの傷跡に関係があるものなのだろう。
妙に確信的にそう判断し、必死に記憶を探る。
「死神……死神…。」
何時しか額に脂汗が流れていた。
心臓が激しく脈打っている。
これは…この感情は……恐怖なのか?
「死神…沙羅 正斎…ッ!!」
一つの名前が脳裏に浮かび上がった。
その名を思い出すと同時に、今まで思い出せなかった記憶が一気に流れ込んできた。
…
……
………
それは不思議な話だった。
空中に浮かぶ島、そこには自然豊かな庭園が有る。
そして、理由は不明だが多くの人々を招いているのだ。
何らかの罠か、それとも慈善事業というものか。
真意は定かではないが大いに興味を惹かれるものだった。
「…某も見てみたいと思っています。」
何の偶然か己の手元に届いた招待状に誘われて、島に向かう道中のこと。
ふとした縁が元で、同じく島に向かうという男と道を共にした。
男の齢は20を過ぎた頃だろうか。
遠い異国の神を信じる僧侶だったが、善良な性格であり、他人に説教を強いる訳でもなく、ひねくれ者の己でも自然に接せられたものだ。
それだけに、その名を男から聞かされた時には驚くしかなかった。
沙羅 正斎(さら しょうさい)
己とは面識も所縁も無い名だが、その名は放浪の旅をする内に自然と己の耳にも届いていた。
端的に言えば、凄腕の剣士であり暗殺者。
大金を積まれれば、年齢性別思想を問わず誰でも殺めるという。
そして、依頼された仕事は必ず成功させる…即ち、沙羅 正斎に狙われたならば、それは死を意味するのと同義だと。
故にその異名は"死神"
「沙羅 正斎が、お主を狙っていると?」
「…その、可能性が…少しだけ有るんです。」
あくまで確証の無い話だと言いながらも、男の表情には怯えが滲んでいた。
事情を聞けば、一週間ほど前まで男は同じ神を信ずる複数の僧と共に各地を修行の為に行脚していた。
しかし、一週間ほど前のその日、単独で街に買い出しに行った男が宿に戻った時には仲間の僧ら全てが殺されていたというのだ。
無論、それだけでは沙羅 正斎の名には結び付かない。
「は…薄情にも、私は仲間たちの遺体を置いて逃げました。
何故仲間たちが殺されたのか、その理由を探ることよりも…彼らを弔うことよりも…ただ怖かったんです。
もしかしたら、仲間たち同様に私も命を狙われているのではと…。」
こうして飛び出すように町から逃げ出し、ただ遠く遠くへと逃れる中で少しずつ、何故? 誰が仲間を殺めたのか? と考えるようになったと言う。
そして唯一心当たりとして思い付いたのは、僧達が所持していた書簡だった。
書簡に何が記載されていたのかは分からない。
ただ、僧達が各国を行脚する中で、宗教内の伝達の為に書簡を預かることは珍しくも無かった。
「…書簡が理由ではないかと思い至ったのは、その書簡を私達に渡した寺院もまた何者かの襲撃を受け破壊されたのだと…
そんな噂を耳にしたからなんです。
同時に、それを行ったのが沙羅 正斎だという噂も…。」
「…して、その書簡は今は?」
男は首を横に振る。
「私は持っていません。
殺された仲間たちが持っていましたので…。」
成る程、と頷いた。
本当に沙羅 正斎が絡んでいるかは不明だが、兎角何かしらの厄介なことに男が巻き込まれてしまったのは確かなようだ。
書簡を失った以上、もはや狙われることも無いかもしれないが…書簡の中身を知っているのだと思われれば、男は狙われるかもしれない。
「…だから、この招待状に頼って島に逃げようと思ったんです。
仲間たちのことを思えば、これが不義理なのはよく承知していますが、今は…寺院に逃げ込むより良いのだと…。」
「分かる話です。……その判断を誰が責められましょうか。」
こうして僧侶の男を見放すことも出来ず、暫く旅を共にしたのだ。
そして、島に近づいたある日の夕暮れのこと、死神は己の前に現れた。
………
……
…
「死神、だな? ……。」
刀を鞘から抜き放ち身構える。
己の背後に僧の男を隠し、隙を見せまいとする。
だが…だが…己の息が荒い。
対峙するだけで気圧される、今まで闘ってきた者達とは比較するべくも無い強敵…いや、化物だ。
明らかに己の腕前では歯が立たぬと分かる。
「眼帯をした剣士の噂…聞いたことがあるゾ…。」
細身の黒衣の男がそう言うと、剣…いや、刀を抜き放った。
殺意が…死の気配がより濃くなった。
己の手が震える。その震える手で何とか眼帯を脱ぎ捨てた。
「眼帯をしたまま闘うのではないのか? ツマランなぁ。」
死神が笑った
「逃げろぉぉおおっ!!」
背後の男を後ろ蹴りし、己は死神に斬りかかった。