Eno.475 #0475  『女は花が好き』 - はじまりの場所

『女は花が好き』という話を聞いたのはいつだったろう。


化粧品と酒の匂いがこもっていて、その中にゲロとカビがうっすら混ざっている家。
薄暗くこじんまりした部屋の中の、さらに暗くて狭い物置がぼくの居場所だった。

母さんはドブネズミでも見るかのようにぼくを見た。
見てくれないこともあった。
よく、怒られて、叩かれて、蹴られた。
ぼくが悪いことをしたから。何が悪かったのかわからないけど、きっと悪いことをしたから。

顔も知らない父さんがいつか家にやってきてぼくをかわいがってくれるんじゃないか。
そんな淡い期待は、顔といっしょにテーブルに叩きつけられて消えた。


『女は花が好き』という話を聞いたのはどこだったろう。


あの日。
繁華街でスリの相手を探しているときに、偶然仕事中の母さんを見かけた。
そういうことはたまにあった。
知らない男の人に腕を絡めて笑う母さんはとてもきれいで、ぼくの自慢の母さんだった。

仕事中に会っちゃダメだから、すぐに隠れる。
でも仕事中の母さんをずっと見ていたかったから、いつもこっそり様子をうかがっていた。

その日の母さんは花束を持っていた。
冴えないおじさんに軽いキスをいくつも落としていた。
そして雑然とした人混みの中で、この言葉だけは妙によく聞こえたのだ。


「いつも素敵な花をありがとう。花を見るたびにあなたのことを思い出すわ。
 このままお花で家中埋め尽くされて、わたし、あなたでいっぱいになっちゃうかも」


ぼくの頭の中で『女は花が好き』という言葉が踊った。
そうだ、母さんに花を贈ろう。

花を抱えて笑う母さんは幸せなくらい素敵だった。
家の中で花を見た覚えはない。ただ、それはぼくがいつも小さな物置にひきこもっていたからかもしれない。
絶対に入れさせてもらえない母さんの部屋には花が活けられていたのかもしれない。
悪いことをしない、嫌われない、じゃダメだ。
母さんに花を贈れば喜んでもらえるに違いない。
喜んでもらえれば、好きになってもらえるかもしれない。

素晴らしい名案に、ぼくは追跡もスリもやめて河川敷へと駆け出した。
川辺には薄紫の小さな花が咲いていると知っていた。
虫食いや病気で汚く焼けた株をへし退け、花びらも葉っぱもきれいな一級品を探し集める。
冷たい風に鼻水が出た。朝から食べていない腹がぐうぐう鳴っても我慢した。
母さんに喜んでもらえるならなんだってしたかった。


子どもの手に束になるくらいの花が集まって、子どもの体に疲れを覚えるくらいに疲れて。
太陽が結構傾いていることに気がついて、ぼくは慌てて家に帰った。
当時の宝物だったきれいなガラス瓶に水を入れ、花を活ける。
子供心に自慢できるすてきな花瓶の出来上がりだ。

水を飲んで空きっ腹をなだめ、いつも通りに家の中を掃除して。
疲れていたけど、いつもは寝ている夜遅くまで頑張って起きて。
帰ってきた母さんが扉を開ける音が嬉しくて嬉しくて。
うとうとしかけていた目がバチッと覚めて、跳ねるように玄関へ駆け出したんだ。


「おかえりなさい! お母さん、あのね、これ、






















『女は花が好き』という話をしたのは誰だったろう。


花の見た目はかわいらしい。それは認めよう。
でも、それだけだ。
すぐに萎れて、腐って、悪臭を放つ。


「あ~、ひどい夢見た……」


花なんて、何の役にも立たない。








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