Eno.733 木早 永心  この地での記録6 - はじまりの場所

 諸国を、外つ国をも巡った今だからこそ言えることだが、当時の己の視野は大変狭かった。
その狭い視野で生きてきた小僧も年を経て、ただ、剣を振りその才覚を伸ばすだけで良かった幼少の時期は過ぎ去っていた。
気付けば、剣の道は己の将来を定める為の道具となってしまっていたのだ。

 己の才を活かし兄を追い落とす道も望まなかった。
されど剣の才を隠すようにただ後塵を拝し、細々と身を潜める様な生き方も望んでいなかった。
どちらに進もうと将来は廃れた暗渠のように暗く、我が天がまるで塞がれてしまったかのような感覚だったことを強く覚えている。

 幸せに生きて良い、和尚の言葉を聴いた時は思わず鼻で笑ってしまった。
事情を知らぬ者が知った風な顔で諭してくるのかと、噛みつくように己の事情をぶつけ和尚を罵ったのは己の苦い歴史であろう。

「…坊は案外口が汚かったんだの。」

 ひとしきり話し終えた己を呆れたような目で和尚が見ていた。
我に返り、自分でもここまで他人を罵れるのかと初めて気づくと、恥を覚え頭を下げた。
それまでの己はどちらかと言えば物静かで温和な少年という見方をされていたし、自分でもそう思っていたからだ。

「事情は分かりましたが、坊はまだまだ幸せな方ですぞ。
 戦国の世であれば、兄弟の争いは血で血を洗う骨肉のものになるか、穏便に済んでも敗者は出家、僧になるのが当たり前でしたからの。」

 そう言うと、兄を追い落としても、兄は別に死にはしないし、弟に負けたという屈辱さえ甘んじればその後も問題なく生きて行ける。
逆に坊が兄を立てたとしても同様、道場主の兄を立てていれば後は好きなだけ剣を振っていれば良い、寧ろ現在の状況と変わらないという点では、その方が勧められると。

「…自分は己の剣がどこまで行けるのか知りたいのです。」

 首を横に振り和尚の言葉を否定する。
兄を立てて、己の剣が愚鈍なフリをする…それが出来ればどれだけ楽だったことだろうか。

「ならば兄を蹴落としなされ。
 剣の道は弱肉強食、強き者が弱き者を退けるのは自然の摂理。」

「…それをしても、己の剣は晴れませぬ。」

 こと剣の技量のみならば兄に勝る自信は有ったが、その他の全てで兄を尊敬していた。
そんな兄を蹴落としてその背中を見続けながら、己に恥じぬ剣を振れる自信は無かった。

「ハッハッハ、悩んでる割には坊は贅沢ですの。
 良いですか、本当に追い詰められた者には選択肢など無いのですぞ。」

「……。」

 贅沢者、か。それは間違いではなかった。
家の道場は近隣では名を馳せており、家の経済は裕福だった。
次男、三男など長男の予備であり、長男が無事であればただの飯喰らいと蔑まれている者も大勢居たのだ。
それに比べれば、己の悩みは実に贅沢であった。
結局は、その贅沢な己の環境に感謝して、狭き二択のいずれかを選ぶ覚悟をしなければならないのだろう。

 そう思い和尚に背を向けたところ、思わぬ言葉を聴かされた。

「坊は以前、拙僧が話した"心眼"の武将の話を覚えていますかの?」








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