Eno.218 兎面の飴屋 戯言 - 壱 - はじまりの場所
昔々あるところに、険しくも豊かな山がありました。
その山には、顔を隠した妖の一族が住んでおりました。
妖達は自然と寄り添い、人前には滅多に姿を見せずに暮らしておりました。
そんな妖の中に、ひとり変わり者がおりました。
これはそんな妖のお話。
顔を隠して暮らす妖の一族には、様々が掟があった。
それらは自然と共存するに必要なものであり、他の命との無用な争いを避けるものでもあった。
俺はその殆どには納得していたし、遵守するのが当然とも思っていた。
ただ一つを除いては。
ある日、俺は山の奥で一人の人間と出会った。
山菜採りに来て迷ったらしいその娘は、足に怪我を負っていた。
妖を見たことが無かったのであろう娘は、俺の姿に大層驚いていた。
それは、言ってしまえば「時々ある話」。
山で迷った者を人里へ導いたり、逆に妖術で迷わせたり。
人はそんな一族を「山の化け物」「天狗」「山の精」「物の怪」として認識し、必要以上に山を荒らすことはしなかった。
一方で、祠を建てたり妖の為の祭を開いたりもした。
得体の知れないものに祟られ、襲われる事を恐れての事だ。
そのような距離感が丁度いいのだろう。人にとっても、妖にとっても。
俺は娘に治療を施し、人里の近くまで導いた。
人で言うところの、「たまたま機嫌が良かった山の物の怪」の行動だった。
ところが、その娘は俺に助けられた事で妖を恐れなくなった。
娘は時折、山奥に入っては俺に会いに来た。
人の食べ物を持って。友だと認識したらしい。
娘は様々な話をした。
人里の暮らし。農作物の話。家族や友の話。
それらは面白くもあり、つまらなくもあった。
俺は然程、人の営みに興味を持っていなかったからだ。
それでも付き合って聞いていたのは、人の食べ物が美味だったからかもしれない。
そんな娘との歪な交友関係も、一陣の風が終わりを告げた。
いつものように話す娘の目の前で、俺の顔を隠していた布が捲れ上がった。
娘は俺の素顔を見た。見てしまった。
俺が一つだけ嫌っていた一族の掟。
「誰かに顔を見られた時は、その者を攫わねばならない」。
攫った者は伴侶にするか、殺して食うかの何れかだ。
俺の一族は、自分達だけでは数を増やせない。
山で果てた者の魂だとか、山に滞留した霊気から生まれたとか。
一族の成り立ちなど、長い年月のうちに忘れ去られてしまった。
故に他の種族を攫い、山に閉じ込める事でゆっくりと「こちら側」に引き込んでいく。
存在を歪めて、新たな物の怪にする。
それが叶わなければ、殺して喰らう。
一族を増やす為の掟。
それは、攫われる側からすれば理不尽極まりない暴挙。
だから俺はこの掟が嫌いだ。
嫌いだから、破った。
娘には想い人が居る事は聞いていたし、人の形をしたものを喰らいたくなかった。
娘にはこの事を口外するなと、できれば忘れてしまえと言い聞かせ、俺はその場から去った。
その後、娘には二度と会わなかった。
掟は魂に刻まれた呪いだ。
それを破れば、必ず報いを受ける。
娘を攫わなかった俺は、妖力を大幅に失った。
妖にとって、妖力は生命力のようなもの。失うことは命を削られる事に等しかった。
加えて、族長からかなりこっ酷く「お叱り」を受けた。
それでも後悔は無かった。
あるとすれば、娘と交友関係を築いてしまった事だけだ。
それからは、山で人を見かけても極力関わらないように努めた。
妖は妖。人は人。
下手に交わらないのが一番だと思った。
そう、思っていたというのに。
結局、それから掟を二度破る事になった。
木を切り倒している最中の樵。
彼は背後に迫る熊に気付かなかった。
俺は熊と格闘した上で、人と関われば命はない事を熊の脳裏に焼き付けて追い払った。
顔を覆う布は熊に破られ、樵は俺の素顔を見た。
俺は娘の時と同じように、樵の前から消えた。
山で遊んでいた童。
友と遊ぶのに夢中になっていたその子は、足元が崖になっている事に気付かなかった。
落ちれば死ぬであろう高さの崖だった。
俺は足を踏み外したその子の腕を掴んだ。
その際、あらぬ方向から石が飛んできた。
童の友が、俺が童を襲っていると勘違いしたのだろう。
顔を隠すものを布ではなく木彫りの面に変えていたのが災いし、それは石によって弾け飛んだ。
童は俺の顔を見てしまった。
俺は童を引き上げた後、娘や樵の時と同じく消えた。
掟を破った代償は、確実に俺の命を削り取っていった。
一度目は妖力を大きく失い、二度目は体が脆弱になり、三度目は片目が焼けた。
痩せ衰え、満足に妖術を扱えなくなった俺を、族長は諦めたらしい。
俺は一族から、棲んでいた山から追放された。
俺の一族は、死を迎えると山に帰化する。
骸は石になったり木になったりと、個人差はあるものの自然に還る。
そうして魂だけが山を巡り、再び妖や山の動物となるらしい。
しかし、妖力を完全に失い帰化した妖は、魂すらも残すことなく自然の一部と成り果てる。
このまま掟を破り続ければ、俺もそうなるのだろう。
俺は決して多くはない私物を持って山を下りた。
相変わらず顔は隠したままだが、魂に刻まれた呪いのせいで素顔は晒せなかった。
山を離れようが、一族から除名されようが、掟は守り続けなければならないらしい。
生まれ故郷を離れる事に多少の寂寥はあったが、それもすぐに消えた。
それくらい疲弊していたのかもしれないし、掟にうんざりしていたのかもしれない。
そうして俺は、「山の妖」から「自由な旅人」になった。
その山には、顔を隠した妖の一族が住んでおりました。
妖達は自然と寄り添い、人前には滅多に姿を見せずに暮らしておりました。
そんな妖の中に、ひとり変わり者がおりました。
これはそんな妖のお話。
顔を隠して暮らす妖の一族には、様々が掟があった。
それらは自然と共存するに必要なものであり、他の命との無用な争いを避けるものでもあった。
俺はその殆どには納得していたし、遵守するのが当然とも思っていた。
ただ一つを除いては。
ある日、俺は山の奥で一人の人間と出会った。
山菜採りに来て迷ったらしいその娘は、足に怪我を負っていた。
妖を見たことが無かったのであろう娘は、俺の姿に大層驚いていた。
それは、言ってしまえば「時々ある話」。
山で迷った者を人里へ導いたり、逆に妖術で迷わせたり。
人はそんな一族を「山の化け物」「天狗」「山の精」「物の怪」として認識し、必要以上に山を荒らすことはしなかった。
一方で、祠を建てたり妖の為の祭を開いたりもした。
得体の知れないものに祟られ、襲われる事を恐れての事だ。
そのような距離感が丁度いいのだろう。人にとっても、妖にとっても。
俺は娘に治療を施し、人里の近くまで導いた。
人で言うところの、「たまたま機嫌が良かった山の物の怪」の行動だった。
ところが、その娘は俺に助けられた事で妖を恐れなくなった。
娘は時折、山奥に入っては俺に会いに来た。
人の食べ物を持って。友だと認識したらしい。
娘は様々な話をした。
人里の暮らし。農作物の話。家族や友の話。
それらは面白くもあり、つまらなくもあった。
俺は然程、人の営みに興味を持っていなかったからだ。
それでも付き合って聞いていたのは、人の食べ物が美味だったからかもしれない。
そんな娘との歪な交友関係も、一陣の風が終わりを告げた。
いつものように話す娘の目の前で、俺の顔を隠していた布が捲れ上がった。
娘は俺の素顔を見た。見てしまった。
俺が一つだけ嫌っていた一族の掟。
「誰かに顔を見られた時は、その者を攫わねばならない」。
攫った者は伴侶にするか、殺して食うかの何れかだ。
俺の一族は、自分達だけでは数を増やせない。
山で果てた者の魂だとか、山に滞留した霊気から生まれたとか。
一族の成り立ちなど、長い年月のうちに忘れ去られてしまった。
故に他の種族を攫い、山に閉じ込める事でゆっくりと「こちら側」に引き込んでいく。
存在を歪めて、新たな物の怪にする。
それが叶わなければ、殺して喰らう。
一族を増やす為の掟。
それは、攫われる側からすれば理不尽極まりない暴挙。
だから俺はこの掟が嫌いだ。
嫌いだから、破った。
娘には想い人が居る事は聞いていたし、人の形をしたものを喰らいたくなかった。
娘にはこの事を口外するなと、できれば忘れてしまえと言い聞かせ、俺はその場から去った。
その後、娘には二度と会わなかった。
掟は魂に刻まれた呪いだ。
それを破れば、必ず報いを受ける。
娘を攫わなかった俺は、妖力を大幅に失った。
妖にとって、妖力は生命力のようなもの。失うことは命を削られる事に等しかった。
加えて、族長からかなりこっ酷く「お叱り」を受けた。
それでも後悔は無かった。
あるとすれば、娘と交友関係を築いてしまった事だけだ。
それからは、山で人を見かけても極力関わらないように努めた。
妖は妖。人は人。
下手に交わらないのが一番だと思った。
そう、思っていたというのに。
結局、それから掟を二度破る事になった。
木を切り倒している最中の樵。
彼は背後に迫る熊に気付かなかった。
俺は熊と格闘した上で、人と関われば命はない事を熊の脳裏に焼き付けて追い払った。
顔を覆う布は熊に破られ、樵は俺の素顔を見た。
俺は娘の時と同じように、樵の前から消えた。
山で遊んでいた童。
友と遊ぶのに夢中になっていたその子は、足元が崖になっている事に気付かなかった。
落ちれば死ぬであろう高さの崖だった。
俺は足を踏み外したその子の腕を掴んだ。
その際、あらぬ方向から石が飛んできた。
童の友が、俺が童を襲っていると勘違いしたのだろう。
顔を隠すものを布ではなく木彫りの面に変えていたのが災いし、それは石によって弾け飛んだ。
童は俺の顔を見てしまった。
俺は童を引き上げた後、娘や樵の時と同じく消えた。
掟を破った代償は、確実に俺の命を削り取っていった。
一度目は妖力を大きく失い、二度目は体が脆弱になり、三度目は片目が焼けた。
痩せ衰え、満足に妖術を扱えなくなった俺を、族長は諦めたらしい。
俺は一族から、棲んでいた山から追放された。
俺の一族は、死を迎えると山に帰化する。
骸は石になったり木になったりと、個人差はあるものの自然に還る。
そうして魂だけが山を巡り、再び妖や山の動物となるらしい。
しかし、妖力を完全に失い帰化した妖は、魂すらも残すことなく自然の一部と成り果てる。
このまま掟を破り続ければ、俺もそうなるのだろう。
俺は決して多くはない私物を持って山を下りた。
相変わらず顔は隠したままだが、魂に刻まれた呪いのせいで素顔は晒せなかった。
山を離れようが、一族から除名されようが、掟は守り続けなければならないらしい。
生まれ故郷を離れる事に多少の寂寥はあったが、それもすぐに消えた。
それくらい疲弊していたのかもしれないし、掟にうんざりしていたのかもしれない。
そうして俺は、「山の妖」から「自由な旅人」になった。