Eno.133 兎耳天使ラビト  3.瓦解 - はじまりの場所

 地上では、次第に男の姿で過ごすことがほとんどになっていった。
 女の子の姿は、何かと不便なことが多くて。
 セクハラされたり、不審者に付き纏われたり。危険なことが度々あった。

 それに、国や地域によっては女性に人権がなくて、女の一人旅では思うように物事が進まないこともあった。
 男だからこその苦労も経験したな。男らしさを求められたり、他人に頼りづらくて、困っていても自力でどうにかしなきゃいけない空気があったり。

 天界では体験することのなかった苦しみの連続だった。
 天使達は皆真面目で、セクハラをするような個体はほとんどいなかったし、心の性別はともかく身体の性別は皆両方持っていたから、互いの性に理解があり、男女の軋轢といったものもあまり見かけなかった。
 地上に降りたことで、両性ではないヒトの身の苦労を実体験できたのは、良い経験だったとは思う。

 口調も変えた。
 おれは元々、敬語を常用していたけれど、人間社会でずっと敬語でいるのは支障があった。
 お高く留まっていると思われてしまったり。
 よそよそしい印象を相手に与えてしまったり。

 しばらくの間、試行錯誤を重ねた。
 一人称は“ぼく”だと舐められて嫌な目に遭ったことがあったから、“おれ”を使いつつ。
 男の姿をしているからといって、男らしすぎる口調は使っていて違和感があった。だから話し方そのものは中性的で、柔和な印象の間延びした口調に落ち着いていった。
 抑揚は男の子っぽくなるようにしてる。


 そうして少しずつ、自分なりに人間社会に順応していく術を身に着け。
 ヒトの男を装っての生活に慣れていった。



 ある時期、おれはとある町のカフェで住み込みで路銀を稼いでいた。
 カフェのマスターが考案したイベント――スタッフ全員が異性装をして客をもてなすという内容だった――が無事終わった時のことだ。

 女の子の服装自体は、女の子の姿でいる時にすることはあったけれど。
 男の姿で女装をするというのは初めてで、なんだか居心地の悪い気分だったな。営業時間が終わってすぐ、おれは男の格好に着替えて片づけをしていた。

「なあラビト、バンドやらないか?」

 カフェの先輩の男、クェルクス……通称クェルにそう声をかけられた。

「バンド?」
「音楽の嗜みはあるんだろ?」
「おれができるの、フルートと、ハープと、トランペットなんだけど、役に立てるかな」

 天界で習わされていたのが主にこれら3つだった。
 ピアノも一応できるけど、そんなに自信がない。

「ハープやったことあるならベースもできるようになるだろ!
 ベース担当してくれ!」

 それはどうなんだろう。撥弦楽器という点では共通してるけどさ。
 と思いつつ、誘ってもらえたのは嬉しかったし、音楽好きだし。面白そうだし。
 おれはバンドの一員になった。

 リーダーであり、リードギター兼ボーカルのクェル。
 誰とでも気さくに話す好青年。髪を橙色に染めていた。
 頭の良い学校に通っていて、学校生活とバイトとバンド活動を両立させられる要領の良さの持ち主。
 行く先々ですごくモテていた。

 リズムギター担当のロサ。
 クェルと一緒の学校に通う女の子。髪に青いメッシュを入れていた。
 理知的な印象の美人。
 普段はクールだけれど、クェルに対しては甘えたがりなところがあった。

 ドラム担当のユーグランス。通称ユーグ。
 クェルが別のバイト先で知り合った相手だそうだ。
 若竹色の服がよく似合う男性だった。
 背が高く筋肉質。やや寡黙だけれど、時折見せる柔らかな笑顔が素敵だったな。
 ウィオラのことをいつも気にかけていた。

 シンセサイザー担当のウィオラ。
 クェルの友達の妹。
 小柄で可愛らしく、紫色の小物をよく身に着けていた。
 耳がとても良く、音楽の知識が豊富で。演奏の改善点を積極的に挙げてくれていた。
 ユーグに懐いていた反面、クェルに強く憧れていたようだ。

 ベース担当のおれ。
 縁の下の力持ち、な立ち位置の楽器は性に合っていた。
 今でも弾いている葡萄酒色のベースは、このバンドに所属していた時に仕立ててもらったものだ。
 おれはバンドのメンバーの中では最も地味だったけれど、全員と仲良くはできていたと思う。



 バンドは楽しかった。

 リズムが心と体に響く。
 ステージの上に立つ高揚感。
 仲間と共同で織り上げていく曲。

 ステージと客席。盛り上がる一体感。

 心地良かった。
 おれは人間の振りをしている天使で、彼等と種族は違うけれど。
 確かにおれは彼等の仲間なんだなって、音楽を通して感じることができて。
 寂しさが和らいだ。

 気がつけば、おれは天界にいた頃よりも情緒が豊かになっていた。
 天使として働いていた頃のおれは、感情の起伏が薄かった気がする。

 おれの心を育ててくれたバンド活動。仲間達。
 しばらくは……この町を発つまでの数年は、この生活を続けていたいなと思った。

 けれど、楽しい日々はそう長くは続かなかった。

 バンド内恋愛が発生したせいだ。



 バンド結成から1年と少しが経った頃。
 練習部屋に着いた途端、怒声が耳を突いた。

「ファンの女の子と遊んでたんでしょ!」
「違うって言ってるだろ!」

 言い争っているロサとクェル。
 おろおろしているウィオラ。
 おれは、何が起きているのか小声でユーグに訊ねた。

 街中でクェルがファンの女の子達と話をしているところをロサが目撃したんだそうだ。
 クェルは、ファンの子達と会ったのは偶然であり、少し話をして解散したから遊びになんて行っていないと主張している。
 対し、ロサはそれを信じようとせず疑心暗鬼になっていた。

「あなたがあんまり遊んでたらバンドの名誉に関わるのよ!」
「女の子食い散らかすようなことしてないから!
 そもそもこの頃お前鬱陶しいぞ。過干渉なんだよ。俺の彼女でもないのに」

 ロサは数秒押し黙った後、堰を切ったように空を裂くような声で叫んだ。

「私の気持ち、ずっと前からわかってるくせに!
 散々私を期待させておいて! 好意を利用しておいて!」
「お前が勝手に期待したんだろ。大体、俺他に好きな人いるし。
 俺はずっとその人一筋だから」

 その場にいる、クェル以外の全員が目を見開いた。

 ロサとウィオラはクェルを好いている。
 ユーグはウィオラのことが好きなのだろう。
 誰が誰を好きなのかは、メンバーの様子を見ていれば察しがついた。
 しかしそういえば、クェルは誰のことが好きなのかはわからなかった。
 すごくモテるのに、恋人がいる様子もない。

「誰? クェルの好きな人って」

 ウィオラがおそるおそる訊ねる。

「一体、何処の誰よ!」

 ロサもまた、強い語気でありつつ震えの混じった声色で問うた。

「……一年前のあの日。運命だと思ったんだ」

 クェルは渋々語り出した。

「あの日は、バイト先のカフェのマスターの趣味で、俺達は異性装をしていた」

 蘇る、あの居心地の悪かったイベントの日の記憶。

「ウェイトレスの格好をしたラビトを一目見て、俺は……恋に落ちたんだ」
ラビト
「え?」


 クェルがこっちを見た。
 と同時に、女性陣の鋭い視線がおれに突き刺さった。
 ユーグは「あちゃー」という表情をして、憐れむような目をおれに向けていた。

 クェルがおれの方へと歩を進める。
 後ずさるも、縮む距離。

「あの時からずっと好きだった。
 女の子の格好をして俺の彼女になってほしい」

 ショックが大きいあまり、おれは言葉が出なかった。
 と同時に、天使の同僚に告白された時のことがフラッシュバックして、目の前が真っ暗になった。
 情けないことに涙まで溢れてくる。

 クェルはおれの様子を見て、

「……ごめん」

 小さくそう告げた。
 彼があっさり退いてくれたのは、不幸中の幸いだったかもしれない。


 こんな状況になって、活動を続けることなんてできなくて。
 バンドは解散し、おれは予定より早くその国を去った。
 列車に乗り込み、窓から空を見上げる。

「……ひとりぼっちになっちゃったな」

 恋愛沙汰さえ起きていなければ、もっと長くあの輝かしい生活を続けていられたのに。
 後味の悪い形で終わってしまった。


 おれはすっかり、身近に恋が発生することが苦手になった。
 疲れ果ててしまった。

 この世から恋も性別の概念もなくなってしまえばいいのに、なんてとりとめのない夢想にさえ耽る。


 他者に対して偏愛をするから不和が生まれるんだ。
 誰もが博愛精神をもって他者と接すれば、こんなことにはならないのに。
 ――所詮机上の空論だ。わかってるさ。
 だから、博愛主義を他人に押し付けたりはしない。
 けれど、自分は博愛精神であり続けたいと思った。

 見返りを求めず、広く普く、浅く愛し。
 何にも執着せず。
 他者からの執着は受け取らず。

『一生孤独なんだろうな、君は』

 かつて同僚に言われた言葉が脳裏をよぎる。
 別にいいんだよ、それで。
 そんないじけた気持ちになった。

 ……幸せな愛の話を知っていけば、印象が変わることもあるだろうか。








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